芸カ21頒布「Origin」舞台設定について

芸能人はカードが命!21、お疲れさまでした。

 

今作はマスカレードの伝説の一端を描きたくて、形にしました。

作中の初代おしゃれ怪盗スワロウテイルを取り巻く環境について、考えたことを下地に話を作ったので、その下地の部分をここで書いておきます。

 

おしゃれ怪盗スワロウテイルの企画は、デビューしたばかりの新人アイドル(しかも仮面で素顔を隠している、普通に考えればイロモノアイドル)にドラマの主役を任せようというのですから、かなり大胆で勇気の要る企画だと思います。

当然、制作・スポンサーサイドにとってリスキーな企画であったろうと思いました。

アイカツは不思議とお金の流れが見えない(見せていない)作品です。そこを埋めるのは大変ですが、同時に想像の余地がたくさんあって考えるのが面白く、なおかつ色んな人が描けそうだなと思う部分でもあります。

ドラマというのは一般的に、作る人や演者だけでは作れません。企画の舵取りをする人あるいは企画を説明してお金を集める人、お金を出す人、宣伝する人、様々な人が利権を持って関わります。

翻って、このリスキーな企画に対して、仕事として臨む“大人”はどのように行動するのか。そこを考えました。

 

当然、新人アイドルに若手(あるいは中堅)監督*1が大型のドラマを担当する企画という、かなり無理のある座組みを整える必要があるため、スポンサーサイドにかなりの譲歩をしてなんとか工面している状況が考えられました。オマケにアイカツカードが作品のキーアイテムになるので、ドレスをデザインしている各ブランドとも信頼関係を築いて協力を得ていかねばなりません。

要するに、(アイドルにとって“外せないステージ”があるのと同様)“外せない企画”なのではないかと思います。

この状況が、新人アイドル二人に対する(現在のアイカツとは真逆の)逆風になっています。すなわち、言われた通りにしなさいという強制力です。

 

既に決まっていた運命を乗り越えてアイドルとしての一歩を踏み出したヒメたちにとって、この状況はどのように映ったのか、というのが話の骨組みです。

ちなみにマスカレードを見出した加藤プロデューサーは、どこまでアイドルのプロデュースに関わっていたのか不明ですが、流石にデビュー当時くらいはマネージメントを行っていたのではないかと思います(光石織姫の父親にデビュー嘆願を三ヶ月かけて行うほどだったので、かなり入れ込んでると思います。これはアイカツ界の三顧の礼*2と言って良いと思います。そしてそれは結果として正解だったことから、プロデューサーとしてもかなりの才覚を持っていたと考えられます)。音楽プロデューサーなので、企画自体に参加していた可能性は低いですが、ただその先見性は後のマスカレードの大ヒットに貢献したと思われるので、冒頭に台詞としてのみの登場してもらいました。

話の中に出てくる番組プロデューサー(厳めしい眼鏡の人)は別人で、上の判断で、スポンサーの意向を正確に体現するプロデューサーが据えられているという設定です。

それぞれに立場があって、言い分があって、それでもより良い方向に向かっていこうと、ただ一時、共闘する時の閃き、熱さ、そういうものが名作と呼ばれるものを形作っていると良いなぁと思いながら作りました。

 

まさに私のアツいアイドル活動!*3です。

 

制作の現場では、人と人の相性みたいなものもあるとは思うんですが、膠着した体制がある中で、どうしたら新しいものに挑戦していけるか、変わっていけるかと考えた時に、想像の上を超えてくるというのはインパクトが強く、人の心を揺さぶるものがあるのではないかと思いました。

自分もまた、アイカツ!視聴中、自分の想像を超えてきたアイドルたちの輝きに魅了されていたので、きっと伝説と謳われるマスカレードもまた、そのような輝きを放っているだろうと思いました。

 

楽しんでもらえれば幸いです。

今作はメロンブックスさんに委託中です。

よろしくおねがいします。

それと一部ページからセリフが抜けてしまったので、参考までに公開しておきます。

申し訳ありませんでした。

 

*1:黒崎監督は現在では見た目通りの年齢だとしても、20年前は若手〜中堅の内に入ると思います

*2:意味は違いますが、何か新しい故事成語が生まれそうな気がします

*3:当時

ミスターSについて一家言ある

芸カ18にて頒布した「パパライチ」、お手にとってくださり、ありがとうございます。

これは自分の中の不安に対して何か答えを与えたいなと思っていたものなので、共感は少ないかもしれないですが、形にしておきたかったです。

ここではあとがきに書けなかったことを書きます。漫画の内容について書こうかなとも思ったんですが、それ以前にどうしてこんなもの描いてしまったのかをまず書いておきたいです。

すでに公開中のサンプル11Pまでの内容について言及します。

www.pixiv.net

 

これはアイカツなのか、と言われれば、アイカツではないと言えます。

描いていて不安だったんですが、完成に近づくにつれますます不安が募り、芸カ当日は「こんなものアイカツではない!」と言いながら本をバシーンと床に叩きつけられることも覚悟して臨みました。

ただ、それでも描ききったのは、アイカツの光は、アイカツでないところにまで届くのではないかという思いがあったからでした。

 

ミスターSについて

まず、自分は根本的な所から、ミスターSがアイカツ世界にいる意味と理由を捉え直したいと思いました。

ミスターSは、ファンが理解を持って応援し、それに対してアイドルが輝いて期待に応える、アイカツ!の美しい世界観にはそぐわないんでしょうか。

ミスターSは作中、ほぼ唯一アイドルたちを悪意を持って扱おうとした人物でした。キラキラしながらアイカツをしている彼女たちを、ゴシップとして消費させようとする彼は確かに良い人物とは言えないかもしれません。ただ、アイドルは、そんな目にも晒されている事実がそこにあるんだと思います。ミスターSの登場によって、アイドル業界の中、それを取り巻くファンからだけではなく、ファンではない一般的な大衆からも注目されているという意味で、話の重みが一気に増した気がしました。

今回の中でミスターSを悪者みたいに扱いましたが、それは一面的な物の見方でしかなく、話をわかりやすく整えるためにああいった形で出したに過ぎません。

彼が仕事としてゴシップを追っているのは、それが求められる素地があのアイカツ世界にあるからだと思います。仕事というのは基本的に他人が求めていることを実現して対価を得ることです。彼があの仕事を、仕事として成り立たせていくには、その後ろに一定数以上の悪意を持った人間がいる、ということを意味すると思います。アイカツ世界も一見優しく見えますが、人間の悪意は見えないところで渦巻いている。ミスターSはそこをうまく掬い上げているに過ぎなくて、悪意の体現者といえど、諸悪の根源ではない、というのが本編での扱いかなと思いました。

アイカツ世界が今回描いたような未来を辿ることになるとはとても思えません。ですが、可能性はゼロではない。今回はあえて、万に一つの可能性を拾いました。万に一つの可能性すらなんとかしたかったからです。

善意も悪意も含んだ人々の総意が世界のあり方を決めていくのだと思います。もし悪意を持った人間が力を持ってしまったら、あるいはそのような人が増えたら、そういった、人々の悪意が積み重なり、動いて、変わってきてしまったら、という世界を考えました。要は、現実社会に近いところを想定しました。

単純に悪意を持った人間を排除すれば良くなるのか。そうは思えません。人々の、暗い楽しみは依然としてある。答えはわかりませんが、僕はそこでアイカツを信じていきたかったです。

作中、美月さんがスターライト学園を離れ、ライバル校と言ってもいいドリームアカデミーで活動していることを嗅ぎつけたミスターSは、この対立構造を煽ろうとします。

しかし、結局アイドルたちは、この対立構造すらエンターテイメントとして昇華してしまう。しかも、勝つか負けるかだけでなく、キラキラしながらアイカツする。人の想像を超えたところで光る、これこそがアイカツだと思いました。

やはり僕は、ミスターSを責めるのではなくて、自分の中のアイカツを大事にしていきたいと感じました。

 

ミスターSと星宮らいち

らいちがアイカツ新聞やアイカツタイムズのようなアイドルファン活動、ファンカツを続けていくとしたら、また、そこに自分の夢や使命感を見出すとすれば、必ずどこかでミスターSという壁につき当たると思っていました。アイカツ新聞の内容を見ると、結構際どい内容になっていることがあったからです。煽情的な見出し、スクープ記事。読者を煽り、目を引きつけるために、あえてそうしている節があります。

情報を扱う職業が求められることに、秘密情報を含む情報をどう扱うのか、という倫理観があると思います。当時はまだ、子供のやることだからと言えるかもしれません。そこから、壁新聞で済んでいた頃とは違う、マスを相手に情報を扱い、情報を伝えていく立場の人間として、"何を伝え"、"何をしない"のか。実際に責任ある立場になることで、見えてくるものがあるのだと思います。その時初めて、ミスターSの仕事というものを正確に捉えることができるのでしょうし、そこでらいちが選択するものは何なのか、ということを考えたかったです。

もう一度言いますが、ミスターSがあの仕事をしているのは、それが世間に求められているからです。

ではらいちはどうなのか。どうするのか。

秘密情報を握った時、出せば売れるのに、出さないことを選択するのは、信念がなければできないのではないかと思います。

"信念のもとに、何かをしない"ということは、自分だけが分かっていることで、他人からすれば目に見えないことです。そして、誰からも評価されないことです。それは見えない星のように人の目に光が届かないものだと思います。それを信じていられるか、大切にできるか、自分の中で輝いているか、自分は、らいちだったらそれができると思いました。

アイカツ"を見ていない読者に"アイカツ"を届けられるか、というのが、将来らいちがどのような記者になるとしても、重要な仕事になってくるんじゃないかと思います。

 

ところでらいちの好物ってなんなんですかね。僕は最初きんぴらだと思ったんですけど、きっと百点満点の答えではないとも思いました。描いてるうちに思ったのは多分百点満点の答えは"りんごさんの手料理"なんだろうなぁということでした。

 

ありがとうございました。

 

最後に今回の話の前日譚というか、62話の裏側を漫画にしてみました。

 

 

今回のはまだまだ在庫があるのでBOOTHで自家通販してます。

よろしくお願いします。

 

mitomusee.booth.pm

ドリフェス!を観たらアイドルの煌めきとは何かを知った

アイドルの煌めきと、当事者性についての話*1

 

ドリフェス!R:5話のネタバレを含みます。

アイドルとは何か。アイドルにハマっていない人からすれば、歌って踊ることで人を楽しませるエンターテイナーだという見方が強いだろう。
側から見ればそう見えるだろうし、実際僕も以前はそうだった。
ではアイドルにハマっている人からは、何が見えているのか。その答えの一つと言えるものがドリフェス!にあった。

アイカツですっかりアイドルの煌めきに魅了されてしまったが、ではそのアイドルの煌めきとは何かと聞かれたら、うまく答えられなかっただろう。アイドルとは何か、なぜこんなに惹きつけられるのか、説明しろと言われたら、ハッキリした答えを出せなかっただろう。
ドリフェス!を観るまでは。

 

ドリフェス!シリーズの素晴らしさについては、もう僕が書くまでもなく、他の方の熱意が伝わってくる文章の方が遥かにわかりやすいので、ここでは書かない。
とにかくサイコー超えてる作品だということだけ押さえてもらえればと思う。

サイコー超えてる作品を観てすっかりハマってしまった僕は*2、そのままドリフェス!Rも視聴、その中で、個人的には衝撃的な回が訪れる。
5話。子役からアイドルに転身した及川慎のフィーチャー回だ。

5年ぶりにドラマのレギュラー出演が決まり気合を入れる慎だったが、アイドルとして仕事が重なり、ドラマに専念できずにいた。主演で子役の颯太にまで気を使われてしまって悩む慎に、智景が語った言葉とは…!?

こちらはdアニメストアの完璧なあらすじ。

anime.dmkt-sp.jpこちらはdアニメストアの完璧なリンク*3


この話の中で、彼は再び、昔の自分のフィールドである役者の世界に向き合うことになる。


“アイドルとして以前に”彼は、かつて天才子役として活躍していたが、今は現役を離れ、一歩引いた立場にいる。
昔取った杵柄、かつての自分を見るような傲慢さ、そのようなものが、決してなかったとは言えない。
所属しているユニットが好調なだけに多忙を極める彼は、結果として自己都合により現場を左右することになってしまう。アイドルとしてでもなく、役者としてでもなく現場に臨むことになり、それなりの辛酸を嘗める。
そこで、今現在アイドルである自分は、単なる賑やかし、宣伝目的、客寄せパンダなのだとわかってしまう。現場から求められていないということがハッキリしてしまったのだ。


“アイドルらしく”営業スマイルで現場を華やかにしていれば良いのだろうか。しかし、それでは身の置き場のない現場に自分のいることの意味を、そこまでの存在で終わらせてしまう。
彼は知っている。役者の世界は生半可な気持ちで入っていってはいけないことを。役になりきれない者が現場を乱すことを。
かつては天才子役と謳われた自分が、一番やってはいけないことをしている。

アイドルとして道化に甘んじることも、役者として役に臨むこともできない。

彼はアウェイを感じていた。

そんな時、アイドルとしての先輩である五月女智景が声をかける。智景は、現役トップアイドル三貴士の一人、五月女一花の語るところを言って聞かせる。

「『アイドルはどこに行ってもアウェイだ。ドラマやバラエティ、どの現場に駆り出されたって、そこには本職の俳優、芸人さんがいる。アイドルなんて、人気取りの道具としか思っていない奴だって多い』」

「でもそれは」

「事実だ。けど、僕たちが気にするべきはそこじゃない。アイドルがアウェイに入ることで生まれるもの、もっと他にあるはずだろ?」

そして、寿司屋で純哉↑が慎の悩みを聞いて答える*4

「どっちかに寄せる必要なんかねぇ。俳優とか、キャスターとか、芸人さんとか、俺たちは本職の人には敵わないかもしれねぇ。だったら、アイドルとして丸ごと全部でぶつかろうぜ。」

この言葉を受けた慎は、アイドルとして、役に臨むことになる。そんな折、直前になってスポンサーの要望で脚本の修正が入る。慎は一旦そのままの脚本のまま撮らせてほしいと願い出、一言。

「俺が、最高の華になります」

慎は純哉↑とともに見事にアイドルとして華のある演技を見せ、スポンサーも納得の撮影を成功させた*5

ライブもこなし*6、後日、今回の仕事で学んだことを語る慎。

「今回の仕事で、わかったことがある。アイドルが、ドラマやバラエティや、アウェイに挑んでいく意味。今までにない新しい姿を届けることで、喜んでくれるファンがいる。本職に敵うかどうかじゃない。アイドルは常に、新しい可能性を求めて、挑戦していくものなんだ。全てはファンのために*7

 

この脚本に、雷に撃たれたような衝撃があった。
まさにアイドルとは、そのようなものなのだ。

 

話を現実に戻そう*8

 

アイドルといえばどこか別の世界の人間で、自分には関係がないと思う人がいるかもしれない。

アイドルは華やかな舞台に立ち、皆の羨望を一身に受けていて恨めしい、という人がいるかもしれない。
商業主義的な側面が強く、金に汚いイメージがある。夢を見せるというなら清廉潔白なイメージを持たせてほしいという人がいるかもしれない。
容姿に恵まれ、家庭に恵まれ、運にも恵まれている。そんな恵まれた環境に身を置いてきたからこそ、アイドルとして活躍できる、という見方があるかもしれない。
残念ながら、間違いではないと思う。
しかし、アイドルは、その呪いを引き受けてなお、舞台に立つだろう。
その呪いこそがアウェイだからだ。

 

この呪いがある故に、どんな現場でも、アイドルはアウェイである。

 

アイドルなのに、という見方さえ、我々が作り出してしまったものだ。
アイドルは歌って踊ることで人を楽しませるエンターテイナー、という見方が既に、アイドルを規定しようとしてしまっている。その眼差しに捉えられたアイドルは、まさにアウェイに立たされていると言っていい。
ちょうど、客寄せパンダとして使われる慎様*9と同じように、身の置き場に困る状況に追い込まれているのだ。
だがそんな我々の眼差しを知ってか知らずか、アイドルはパフォーマンスを披露する。我々の想定を上回るパフォーマンスを、だ。その影に、弛まぬ努力と、強靭な克己心と、煌めく想いがあることを、様々なメディアから知ることができる。

アイドルなのに、という我々自身が作り出してしまったアウェイでなお輝こうとするその姿にこそ、我々はアイドルの煌めきを見るのだ。

 

アイドルだから、歌って踊るのではない。アイドルであるために、歌って踊るのだ。そしてそのために厳しいレッスンに耐え、血と、汗と、涙を流す。それが美しい。
アイドルであるためなら、何だってアイドル活動になるのだ*10
むしろアイドルであるためなら、必ずしも歌って踊る必要はない。畑を耕すアイドルがいる。物作りをするアイドルがいる。料理をするアイドルがいる。最近では自然環境そのものを作るアイドルまで現れた*11

 

開国した時の僕。

 

アイドルのやることではないと思うだろうか。何度も何度も言うが、それこそが彼らをアウェイに立たせる呪いだ。

アウェイにあって輝く者、それこそがアイドル。


蓋し、このアウェイという現実は、我々自身が作り出してしまったものだ。見て見ぬ振りをしているが、緩やかに、そして確実に自分の首を絞めている。

そしてまた、この現実は、我々にとって“アウェイ”である。そのアウェイにあって、泥臭くも必死になって前を向いて進もうとしている人の汗の美しさを、涙の輝きを、その想いの煌めきを、我々は既に知っている。

みんな、本当には、誰しもがコンプレックスを抱え、傷つき、悩み、ままならない現実と戦っていることを知っているはずだ。

だからこそ、アイドルには当事者性がある。

その惨めさも、その悔しさも、その涙の訳も、全てがアイドルを見る人の中にあるためだ。

だからこそ、その共感を応援に変える。

アウェイで戦うアイドルは、我々の希望そのものだからだ。


アイドルは常にアウェイで戦う。
身の置き場のない現実を切り拓いて、自分の足で立っている。
それがどれ程の困難かを、我々は知っているはずだ。
アウェイに立たされてなお輝こうとする、その意志の煌めきとは何かを我々はもう既に知っているはずだ。

 

アイドルとは何か、ということを考えたことのある人ならもう既に"アイドルそのものから"、心のドリカカードを受け取ってしまっていると思う。
Catch your Yell!
僕は、人それぞれに開国するタイミングがあると思っている。是非、ドリフェス!を観て、アイドルの煌めきとは何かを知ってほしい。そして開国してほしい*12

 

ありがとうございました。

 

 

これは観た直後の僕。はしゃぎ過ぎて何を言ってるのかよくわからないので今回まとめた。

 

 

*1:今回の脚注は全て副音声です。

*2:ちなみに僕の推しは純哉↑くんと髪を下ろした時の奏くんと三神さんの車の前で飼い主を待つ犬のように座り込んで待っていた奏くんです

*3:渋い顔してるのが慎様です

*4:ちなみに「お前はエンガワ、俺はタマゴ」と寿司ネタに例える純哉↑くん、ドラマでは金髪にカチューシャしててまさに寿司ネタのタマゴなんですよね。

*5:役としてつけていたタマゴの海苔であるカチューシャを投げる純哉↑くん、タマゴであることも捨て、ファンにとっては見慣れた剥き身の“アイドル”を見せる。粋というやつだ

*6:ピエロも騙せる想い愛

*7:EDの差替え分で挿入される一枚絵、全く状況がわからないのだが、投げたカチューシャが猫耳に変わって返ってきたのか純哉↑くんの猫耳カチューシャコスが描かれており、新しい可能性を感じる

*8:戻りたくはない。

*9:この字面の強さ、推せる

*10:うんうん、それもまたアイカツだね!

*11:全部同じアイドル

*12:やっぱりKUROFUNEも推しでした。

アイカツ!を観たら本当に伝えたいことができた

初めての二次創作活動から一年、思い立ったのでまとめてみる。

一年分なので長い話。

 

普段から、伝えるべきことはちゃんと伝えるべきだと思っている。

きっとわかってくれるはずだ、とか、わかるべきだ、というのは身勝手な期待や甘えというもので、ちゃんと言葉や形にしなければ伝わらないと思う。

人事を尽くして天命を待つという言葉があるが、まさに他人の反応など天命に等しい。人事を尽くしても期待通りの結果がもたらされることなどないかもしれない。

だがそれでも人事を尽くさなければ、天命を待つべくもない。そこに甘えがあっては伝わるものも伝わらないものだと思う。

では普段からちゃんとやっているかと言えば、できていない。

できていないことに気がついていながら、気がつかないフリをして生きていることに後ろめたさがあった。

そんな自分でも、どうしても伝えたいことができたら動かずにはいられなくなった。

 

絵を描くのが好きだった。

もっと上手くなりたいと思っていたが、ある日心が折れてしまった。

 

でも絵を描いて物語を作りたいという気持ちだけは諦めきれず、擦り傷だらけになるのも構わず引き摺り回して自分を傷つけていたと思う。

物語は作りたい。“そのためには絵をもっと上手く描かなければいけない”。絵を描くと自分の下手さ加減に嫌気がさす。でも物語は作りたい。

そんなループで同じ所をグルグルと回っていた。

いつしか僕にとって、絵を描くのはリハビリのようなもので、バラバラになってしまった心を拾い集めていくような作業になっていた。

10年程そうした鬱屈した感情を持て余していた。今にして思えば、難しいことは考えず絵を描き続けていればもっと上手くはなれただろう。

そうさせてくれなかったのは自分自身で、自意識こそが自分の首を絞めていたことに気がついてはいた。

 

そんな中、友人と視聴を始めたアイカツ!にのめり込んだ。

アイカツ!のアイドル達は、やりたいと思ったことを素直にやって、実現させている、そんな輝きに魅了されていた。

やりたいことをやりたいようにやる、というのはとても難しい。特にアイドルのように様々な期待がかけられる存在にとってはそうだ。周りの協力がなければ難しいだろう。

では周りでは誰がその夢を支えているのか。

 

と思った時、推しがいた。正確に言うとカップルではないが、応援したくなった。

 

 

 

2話まで観た時の印象。

140字の中に書けることは少ないが、よりにもよって学園長のことを書いているあたり、運命の出会いである。

*1

視聴前は178話+劇場版2作という多さに先の見えない不安を感じたが、視聴を終えると、いや終える前から、終わって欲しくない、もっと観ていたいと思うようになっていた。

既に一度視聴済みの友人に感想を言いながら、前回までの流れを整理したり、これからどうなっていくか考えたりしていた。

そうして1年かけて観てきた物語が、自分の中にしっかりと根を下ろした実感があった。

自分の中でキャラクターが生き生きと動いているのが嬉しかったし、希望すら持てた。

推しに関しては、観ていくうちにああなってほしい、こうなってほしいと考えるようになっていた。

 

結論を言えば、話の中で自分の推しカプは“なんか良い雰囲気”にはならなかった。ならなかったが、それが良い。描かないからこそ貫き通せる作品の思想を感じた。

一方で二人にはもっと個人的な幸せを享受してほしかった。共にアイドルを支え続けてきたからこそ、自分自身の幸せにも目を向けてほしかった。隣にいるパートナーの存在にも。

余計なお世話かもしれないが、願わずにはいられないほど二人のあり方が眩しかった。

 

本編で描かれていないなら二次創作はどうか。きっと同じような視点で観ている人はいるに違いないと思った。 アイカツ!は既に放映を終了しているコンテンツであるだけに、二次創作は視聴後唯一の楽しみだった。だが、いざ二次創作解禁と思ったら、あまりの推しカプの絵の少なさに絶望してしまった。

 

特定のキャラクターの絵や解釈や話を懸命に検索するというのは初めてだったかもしれない。pixivのタグ検索もした。Twitterのツイートも放映当時まで遡れるだけ遡った。だが、自分が観ていたものはなんだったのかと不安になるくらい推しカプの話が出てこない。

 

推しカプを世の中に増やしたければ自分で言い続けろという言説があった気がする。

尤もなことだ。しかし、それは誰かに認知されたらの話でもある。

 

誰ともなしにtwitterで萌え語りをすれば、誰かが拾ってくれるだろうか。

誰も見てないようなアカウントでツイートすることに意味はあるのか。

壁に向かって話してるような状態で、誰が見て、何を思うというのか。

  

ならば自分の考えた話を形にして伝えようと思った。

ああなってほしい、こうなってほしいと考えるうちに膨らんでいた妄想があった。ここで自分の中の物語を形にせずにいたら、誰も描かないだろうと思った。数は少ないが、好きな人はいるはずで、そういう人にこそ読んでもらいたい。

言うなれば布教だ。二次創作をしたこともない奴が布教だなんて、烏滸がましいかもしれない。

でも自分が描かなかったら絶対に出てこないと思った。

推しカプで本を描いている人間がいるということを、何処かの誰かに伝えなければならないと思った。ひょっとしたら考えていたことはあっても、ニッチ過ぎて不安を感じているだけかもしれない。自分のように。ならば自分で描こう。描いて、同好の士はここにいるぞと訴えなければならない。

 

今まではいわゆるオタク的なコミュニティでオタク的な活動をしていたわけではなかった。自分の好きなことを好きなようにやっていたらいつのまにかオタク的になっていただけのことだ。一人で好きなことをやっている分には、一人で楽しめれば良かった。

そんな人間がどうすれば伝えられるのか、懸命に考えた。

まずは宣伝だ。今までにないほど自分の本を宣伝した。工夫を凝らし、なるべく目を引くような仕掛けを出来る範囲でやった。

今までなら自分の絵を見せる羞恥心もあったかもしれない。何度も宣伝してフォロワーは煩わしいと思うかもしれない。

だが本当に伝えたいことの前ではそんな自意識も忘れられた。

 

描くにあたって、自分の絵柄も、アイドルアニメの二次創作には相応しくないかもしれないという引け目もあった。見る人によっては避けたいものだろうし、嫌われても当然だし、求められてもいない。やっぱりかわいい絵柄の方がいいし、僕もそうだと思う。どうせなら可愛く描きたい。

でもどうしても伝えたいことの前ではそんな自意識も忘れられた。

 

物語を作りたいという気持ちが初めて、“そのためには絵をもっと上手く描かなければ”という気持ちより前に出てきた瞬間だった。同じところをグルグル回っていただけだったところに、指針を与えられたような気がした。

二次創作は自分の妄想に過ぎない。でもそれ故に、それだけ推しカプのことを考えている、望んでいるということでもある。本が出れば、それは望んでいる人がいるということだ。望まれているなら、描いて(書いて)みようかと思ってもらえるかもしれない。

その一心で、2017年11月のイベントに向けて描いたのがこちら。

www.pixiv.net

公開中なので、是非読んで、ジョニヒメを描いて(書いて)ください。イラストでもSSでも考察でもシチュだけでも、もちろん漫画でもなんでもいいと思う。僕は他の人が作ったものが読みたい。そのために活動していると言ってもいい。

 

描いてる時は本当に心細くて、1部で良いから買ってもらえないかなと思っていた。

まぁそんなに売れないだろうし、小ロットで刷るか…売れなくて元々、これまで売れなかったんだから当然の結果、勘違いでしたすみませんと自分への言い訳と一人相撲していた。絵で心が折れて以来、自分の心を大事にしようと思っているので傷つきたくない気持ちが強い。理論武装は当然、売れなくても傷つかない心の準備は整えていた。

 

結果は完売。本当に救われた気持ちだった。

 

欲しかった感想も貰えた。

描いた本には自分の好きなものしか入れていない。混じりっけなしの“自分が見たかったもの”だ。

今まで俗に萌え語りと言われるものをした時、まともに受け入れられたためしがなかった。

描いた本が読まれて、感想までもらえたことに、今までの分まで丸ごと救われてしまった。自分が好きに描いたものが縁もゆかりもない人たちに受け入れてもらえるのは初めての経験だった。素直に喜べたのは久しぶりだった。

 

とはいえほんの少部数が手に取られたに過ぎない。まだまだ布教というには程遠い。

本当はここからコンスタントに本を出していくのが一番良いであろうことはわかっていた。イラストもバンバン上げて、積み重ねていって話を出すのがBestな戦略だ。

しかし自分の中にもハッキリまとまった話があるわけでもない。使える時間もないからそんなに絵を描けない。時間があったら話を作った方がいい。

残念ながら自分にはBestな選択肢を選べる能力がないし、描いてみて痛感した技術と経験の不足が何よりのネックだった。

これでは本当に伝えたいことを伝えることができないと思った。

話があったとしても、勢いだけで描いてしまったものから、さらにクオリティを上げたい気持ちもあった。やはり自分が納得できるものにしたかった。

 

またしても面倒くさい自意識が邪魔をするのかと思ったが、今度は逆にもっと良いものを作りたいという純粋な向上心だった。

 

さらに、本を描くモチベーションを保つために、本を作るにあたって障害になるものを取り除く必要があった。

一番の障害になっていたのが背景の描き込み作業だ。

コマが変われば背景も変わる。そのために同じものを描くことに辟易していた。

だったらということで3Dの勉強を始めた。作ってしまえば使い回しが効くし、ふと良い演出を思いついて画面の構成を変えたい時も、アングルを変えればいいだけなのがとても良い。

 

 

もちろん3Dを使うなんて卑怯だ、邪道だ、とか、自分の力で描いたものでなければ認められない、とか、そういう見方があることはわかっている。

それは間違いではないし、反論する気もない。

僕自身、そういったものに頼らず地力を鍛えなければならないと思い込んでいたのだから、当然のことだと思う。

ただ、その思い込みこそが自分の心を壊し、絵を描く手を止めていたということもわかっていたので、本を描ききること、完成させることに目的をシフトしたら、目的達成を阻む意固地な自意識は呆気なく霧散した。

 

本当に伝えたいことの前では、自分の心を壊した原因さえ儚いものだった。

 

2017年12月頃から約3ヶ月ほど基礎的な勉強をして、その復習と応用を兼ねて二作目の背景の製作に取り掛かった。4月頭に背景が完成して二作目の本格的な執筆に入る。 

覚えたばかりの技術の助けもあって二作目ができた。

 

これによってある程度まとまりのある量をこなせることがわかった。手書きで描こうとしたらめげていたかもしれない。

この二作目も、自分の中でモヤモヤしてたものを形にしたい、伝えたいと願った結果だ。この話を描くためには、あの空間が必要不可欠だった。

 

まだまだ足りないものがある。漫画を描いた経験が足りない。いざ描こうとすると、今まで絵や漫画を描いてこなかったツケが回ってくる。ちゃんと完成させることのできた漫画は二次創作を始めるまでに二度しかなかった。初めての二次創作が3回目、二作目が4回目だ。

圧倒的な経験不足を埋めるため、推しカプを描く前にもう一つ別の話を描くことで数をこなそうとした。

おそらくページ数的に同程度のものになると思われたので、ちょうどよかった。

そして、7月から準備に入り、12月現在執筆中なのがこちら。

 

これも伝える努力をしていかなければならないと思っている。

 

これからの予定としては現在執筆中のものを完成させ、そのまま長らく温めていた推しカプを描くつもりでいる。

筆が遅いので、推しカプ本は2019年10月開催予定のイベントに間に合えばというところだ。

スケジュールはギッシリで、休む暇がない。

だけど楽しい。何かを伝えようとすることが、こんなに楽しくなるなんて知らなかった。もちろん不安もあれば、作業が辛いこともある。

しかし、伝えようとすれば伝わることもある、それも自分の描いた絵で伝えられるということを知ってしまった。もう後戻りはできない。

 

振り返ると、本当に伝えたいことを描くために動き始めたのが2017年だとすれば、2018年は本当に伝えたいことはどのようにしたら伝えられるのかを検討し、実際に成果としてまとめる年だったと思う。

2019年は伝えたいことを形にしたい。

 

改めて言うと、今の自分の最終的な目的は世の中に推しを描いた作品を増やすことだ。

この活動の終わりにどうなるか、本当に伝えたいことは伝わるのかはわからない。

伝えた結果、どのような反応が返ってくるかもわからない。

ただ人事は尽くすべきだと思うし、そのために必要なことをやっているつもりだ。

一つでも多くの推しカプ本を増やしたいし、自分でも描きたい。その目的のために。

 

最後にこれだけは伝えたい。

 

“ジョニヒメはいいぞ”

 

ありがとうございました。

*1:アイカツ!は2016年7月1日に友人に誘われて視聴を開始。Skypeを繋ぎながら動画配信サイトでそれぞれ同時に再生し、画面を同期させて視聴していた。翌2017年8月24日に最終178話を観終えた。