アイカツ!を観たら本当に伝えたいことができた

初めての二次創作活動から一年、思い立ったのでまとめてみる。

一年分なので長い話。

 

普段から、伝えるべきことはちゃんと伝えるべきだと思っている。

きっとわかってくれるはずだ、とか、わかるべきだ、というのは身勝手な期待や甘えというもので、ちゃんと言葉や形にしなければ伝わらないと思う。

人事を尽くして天命を待つという言葉があるが、まさに他人の反応など天命に等しい。人事を尽くしても期待通りの結果がもたらされることなどないかもしれない。

だがそれでも人事を尽くさなければ、天命を待つべくもない。そこに甘えがあっては伝わるものも伝わらないものだと思う。

では普段からちゃんとやっているかと言えば、できていない。

できていないことに気がついていながら、気がつかないフリをして生きていることに後ろめたさがあった。

そんな自分でも、どうしても伝えたいことができたら動かずにはいられなくなった。

 

絵を描くのが好きだった。

もっと上手くなりたいと思っていたが、ある日心が折れてしまった。

 

でも絵を描いて物語を作りたいという気持ちだけは諦めきれず、擦り傷だらけになるのも構わず引き摺り回して自分を傷つけていたと思う。

物語は作りたい。“そのためには絵をもっと上手く描かなければいけない”。絵を描くと自分の下手さ加減に嫌気がさす。でも物語は作りたい。

そんなループで同じ所をグルグルと回っていた。

いつしか僕にとって、絵を描くのはリハビリのようなもので、バラバラになってしまった心を拾い集めていくような作業になっていた。

10年程そうした鬱屈した感情を持て余していた。今にして思えば、難しいことは考えず絵を描き続けていればもっと上手くはなれただろう。

そうさせてくれなかったのは自分自身で、自意識こそが自分の首を絞めていたことに気がついてはいた。

 

そんな中、友人と視聴を始めたアイカツ!にのめり込んだ。

アイカツ!のアイドル達は、やりたいと思ったことを素直にやって、実現させている、そんな輝きに魅了されていた。

やりたいことをやりたいようにやる、というのはとても難しい。特にアイドルのように様々な期待がかけられる存在にとってはそうだ。周りの協力がなければ難しいだろう。

では周りでは誰がその夢を支えているのか。

 

と思った時、推しがいた。正確に言うとカップルではないが、応援したくなった。

 

 

 

2話まで観た時の印象。

140字の中に書けることは少ないが、よりにもよって学園長のことを書いているあたり、運命の出会いである。

*1

視聴前は178話+劇場版2作という多さに先の見えない不安を感じたが、視聴を終えると、いや終える前から、終わって欲しくない、もっと観ていたいと思うようになっていた。

既に一度視聴済みの友人に感想を言いながら、前回までの流れを整理したり、これからどうなっていくか考えたりしていた。

そうして1年かけて観てきた物語が、自分の中にしっかりと根を下ろした実感があった。

自分の中でキャラクターが生き生きと動いているのが嬉しかったし、希望すら持てた。

推しに関しては、観ていくうちにああなってほしい、こうなってほしいと考えるようになっていた。

 

結論を言えば、話の中で自分の推しカプは“なんか良い雰囲気”にはならなかった。ならなかったが、それが良い。描かないからこそ貫き通せる作品の思想を感じた。

一方で二人にはもっと個人的な幸せを享受してほしかった。共にアイドルを支え続けてきたからこそ、自分自身の幸せにも目を向けてほしかった。隣にいるパートナーの存在にも。

余計なお世話かもしれないが、願わずにはいられないほど二人のあり方が眩しかった。

 

本編で描かれていないなら二次創作はどうか。きっと同じような視点で観ている人はいるに違いないと思った。 アイカツ!は既に放映を終了しているコンテンツであるだけに、二次創作は視聴後唯一の楽しみだった。だが、いざ二次創作解禁と思ったら、あまりの推しカプの絵の少なさに絶望してしまった。

 

特定のキャラクターの絵や解釈や話を懸命に検索するというのは初めてだったかもしれない。pixivのタグ検索もした。Twitterのツイートも放映当時まで遡れるだけ遡った。だが、自分が観ていたものはなんだったのかと不安になるくらい推しカプの話が出てこない。

 

推しカプを世の中に増やしたければ自分で言い続けろという言説があった気がする。

尤もなことだ。しかし、それは誰かに認知されたらの話でもある。

 

誰ともなしにtwitterで萌え語りをすれば、誰かが拾ってくれるだろうか。

誰も見てないようなアカウントでツイートすることに意味はあるのか。

壁に向かって話してるような状態で、誰が見て、何を思うというのか。

  

ならば自分の考えた話を形にして伝えようと思った。

ああなってほしい、こうなってほしいと考えるうちに膨らんでいた妄想があった。ここで自分の中の物語を形にせずにいたら、誰も描かないだろうと思った。数は少ないが、好きな人はいるはずで、そういう人にこそ読んでもらいたい。

言うなれば布教だ。二次創作をしたこともない奴が布教だなんて、烏滸がましいかもしれない。

でも自分が描かなかったら絶対に出てこないと思った。

推しカプで本を描いている人間がいるということを、何処かの誰かに伝えなければならないと思った。ひょっとしたら考えていたことはあっても、ニッチ過ぎて不安を感じているだけかもしれない。自分のように。ならば自分で描こう。描いて、同好の士はここにいるぞと訴えなければならない。

 

今まではいわゆるオタク的なコミュニティでオタク的な活動をしていたわけではなかった。自分の好きなことを好きなようにやっていたらいつのまにかオタク的になっていただけのことだ。一人で好きなことをやっている分には、一人で楽しめれば良かった。

そんな人間がどうすれば伝えられるのか、懸命に考えた。

まずは宣伝だ。今までにないほど自分の本を宣伝した。工夫を凝らし、なるべく目を引くような仕掛けを出来る範囲でやった。

今までなら自分の絵を見せる羞恥心もあったかもしれない。何度も宣伝してフォロワーは煩わしいと思うかもしれない。

だが本当に伝えたいことの前ではそんな自意識も忘れられた。

 

描くにあたって、自分の絵柄も、アイドルアニメの二次創作には相応しくないかもしれないという引け目もあった。見る人によっては避けたいものだろうし、嫌われても当然だし、求められてもいない。やっぱりかわいい絵柄の方がいいし、僕もそうだと思う。どうせなら可愛く描きたい。

でもどうしても伝えたいことの前ではそんな自意識も忘れられた。

 

物語を作りたいという気持ちが初めて、“そのためには絵をもっと上手く描かなければ”という気持ちより前に出てきた瞬間だった。同じところをグルグル回っていただけだったところに、指針を与えられたような気がした。

二次創作は自分の妄想に過ぎない。でもそれ故に、それだけ推しカプのことを考えている、望んでいるということでもある。本が出れば、それは望んでいる人がいるということだ。望まれているなら、描いて(書いて)みようかと思ってもらえるかもしれない。

その一心で、2017年11月のイベントに向けて描いたのがこちら。

www.pixiv.net

公開中なので、是非読んで、ジョニヒメを描いて(書いて)ください。イラストでもSSでも考察でもシチュだけでも、もちろん漫画でもなんでもいいと思う。僕は他の人が作ったものが読みたい。そのために活動していると言ってもいい。

 

描いてる時は本当に心細くて、1部で良いから買ってもらえないかなと思っていた。

まぁそんなに売れないだろうし、小ロットで刷るか…売れなくて元々、これまで売れなかったんだから当然の結果、勘違いでしたすみませんと自分への言い訳と一人相撲していた。絵で心が折れて以来、自分の心を大事にしようと思っているので傷つきたくない気持ちが強い。理論武装は当然、売れなくても傷つかない心の準備は整えていた。

 

結果は完売。本当に救われた気持ちだった。

 

欲しかった感想も貰えた。

描いた本には自分の好きなものしか入れていない。混じりっけなしの“自分が見たかったもの”だ。

今まで俗に萌え語りと言われるものをした時、まともに受け入れられたためしがなかった。

描いた本が読まれて、感想までもらえたことに、今までの分まで丸ごと救われてしまった。自分が好きに描いたものが縁もゆかりもない人たちに受け入れてもらえるのは初めての経験だった。素直に喜べたのは久しぶりだった。

 

とはいえほんの少部数が手に取られたに過ぎない。まだまだ布教というには程遠い。

本当はここからコンスタントに本を出していくのが一番良いであろうことはわかっていた。イラストもバンバン上げて、積み重ねていって話を出すのがBestな戦略だ。

しかし自分の中にもハッキリまとまった話があるわけでもない。使える時間もないからそんなに絵を描けない。時間があったら話を作った方がいい。

残念ながら自分にはBestな選択肢を選べる能力がないし、描いてみて痛感した技術と経験の不足が何よりのネックだった。

これでは本当に伝えたいことを伝えることができないと思った。

話があったとしても、勢いだけで描いてしまったものから、さらにクオリティを上げたい気持ちもあった。やはり自分が納得できるものにしたかった。

 

またしても面倒くさい自意識が邪魔をするのかと思ったが、今度は逆にもっと良いものを作りたいという純粋な向上心だった。

 

さらに、本を描くモチベーションを保つために、本を作るにあたって障害になるものを取り除く必要があった。

一番の障害になっていたのが背景の描き込み作業だ。

コマが変われば背景も変わる。そのために同じものを描くことに辟易していた。

だったらということで3Dの勉強を始めた。作ってしまえば使い回しが効くし、ふと良い演出を思いついて画面の構成を変えたい時も、アングルを変えればいいだけなのがとても良い。

 

 

もちろん3Dを使うなんて卑怯だ、邪道だ、とか、自分の力で描いたものでなければ認められない、とか、そういう見方があることはわかっている。

それは間違いではないし、反論する気もない。

僕自身、そういったものに頼らず地力を鍛えなければならないと思い込んでいたのだから、当然のことだと思う。

ただ、その思い込みこそが自分の心を壊し、絵を描く手を止めていたということもわかっていたので、本を描ききること、完成させることに目的をシフトしたら、目的達成を阻む意固地な自意識は呆気なく霧散した。

 

本当に伝えたいことの前では、自分の心を壊した原因さえ儚いものだった。

 

2017年12月頃から約3ヶ月ほど基礎的な勉強をして、その復習と応用を兼ねて二作目の背景の製作に取り掛かった。4月頭に背景が完成して二作目の本格的な執筆に入る。 

覚えたばかりの技術の助けもあって二作目ができた。

 

これによってある程度まとまりのある量をこなせることがわかった。手書きで描こうとしたらめげていたかもしれない。

この二作目も、自分の中でモヤモヤしてたものを形にしたい、伝えたいと願った結果だ。この話を描くためには、あの空間が必要不可欠だった。

 

まだまだ足りないものがある。漫画を描いた経験が足りない。いざ描こうとすると、今まで絵や漫画を描いてこなかったツケが回ってくる。ちゃんと完成させることのできた漫画は二次創作を始めるまでに二度しかなかった。初めての二次創作が3回目、二作目が4回目だ。

圧倒的な経験不足を埋めるため、推しカプを描く前にもう一つ別の話を描くことで数をこなそうとした。

おそらくページ数的に同程度のものになると思われたので、ちょうどよかった。

そして、7月から準備に入り、12月現在執筆中なのがこちら。

 

これも伝える努力をしていかなければならないと思っている。

 

これからの予定としては現在執筆中のものを完成させ、そのまま長らく温めていた推しカプを描くつもりでいる。

筆が遅いので、推しカプ本は2019年10月開催予定のイベントに間に合えばというところだ。

スケジュールはギッシリで、休む暇がない。

だけど楽しい。何かを伝えようとすることが、こんなに楽しくなるなんて知らなかった。もちろん不安もあれば、作業が辛いこともある。

しかし、伝えようとすれば伝わることもある、それも自分の描いた絵で伝えられるということを知ってしまった。もう後戻りはできない。

 

振り返ると、本当に伝えたいことを描くために動き始めたのが2017年だとすれば、2018年は本当に伝えたいことはどのようにしたら伝えられるのかを検討し、実際に成果としてまとめる年だったと思う。

2019年は伝えたいことを形にしたい。

 

改めて言うと、今の自分の最終的な目的は世の中に推しを描いた作品を増やすことだ。

この活動の終わりにどうなるか、本当に伝えたいことは伝わるのかはわからない。

伝えた結果、どのような反応が返ってくるかもわからない。

ただ人事は尽くすべきだと思うし、そのために必要なことをやっているつもりだ。

一つでも多くの推しカプ本を増やしたいし、自分でも描きたい。その目的のために。

 

最後にこれだけは伝えたい。

 

“ジョニヒメはいいぞ”

 

ありがとうございました。

*1:アイカツ!は2016年7月1日に友人に誘われて視聴を開始。Skypeを繋ぎながら動画配信サイトでそれぞれ同時に再生し、画面を同期させて視聴していた。翌2017年8月24日に最終178話を観終えた。